末法之世 8.前九年の役 スパイというものは、想像上の存在なわけでも、近現代だけの存在でもない。どの時代にあっても、どの社会にあっても、スパイというのは存在する。安倍頼時が利用したのはスパイであった。 奥六郡に向けて軍勢を進めているタイミングで、朝廷軍に潜り込んだ反乱軍のスパイが、平永衡が反乱軍側に寝返る可能性があるという情報を流したのである。そして、この情報を源頼義が信じてしまった。それだけではなく、平永衡が殺されてしまった。 源頼義はこれで、裏切り者はいなくなり、安心して戦えると考えた。 だが、平永衡が殺されたことは藤原経清を一つの決断をさせるに充分であった。八〇〇名の軍勢を率いて朝廷軍を脱出し、反乱軍側に加わったのである。その上、平永衡の所領に平永衡...2017.04.28 22:35平安時代叢書
末法之世 7.末法の年 永承六(一〇五一)年、藤原頼通が還暦を迎えた。寛弘六(一〇〇九)年に一八歳の若さで議政官入りしてから四二年という長きに渡って国のトップグループの一員であり続けたのだから、人生としては順風満帆だったかも知れない。 だが、この時点の議政官の面々を見ると、順風満帆とは言えなくなる。2017.04.28 22:30平安時代叢書
末法之世 6.後冷泉天皇 後冷泉天皇が断固譲らぬこととして主張したのは、弟である尊仁親王を皇太子に就けることである。 この時点でまだ子がいない後冷泉天皇である。皇位継承権の筆頭として弟が選ばれるのはおかしな話ではない。この時点でまだ一二歳であるというのは不安要素ではあるが、前例のないことではない。そこまでは何に問題もないのである。 問題となるのは、尊仁親王の母が藤原氏でないということ。後冷泉天皇に何かあったとき、即位するのは尊仁親王である。そして、まだ元服していない以上、摂政が置かれることとなる。 繰り返すが、摂政というのは、天皇がまだ幼い、あるいは天皇が病気に倒れたなどの理由で、天皇の近親者が天皇の職務を代行する仕組みのことであり、藤原氏だから摂政になれ...2017.04.28 22:25平安時代叢書
末法之世 5.後朱雀天皇 後朱雀天皇は、そして藤原頼通は、人事が詰まってしまっていることが問題の一つであることを理解してはいた。そして、人事が詰まっているのだから、詰まりを取れば、根本的解決とまではいかなくとも問題を多少なりとも解決するという考えはあった。 人事の詰まりは何が問題なのか? 自分に相応しい地位ではないと考える者が増大することが問題なのである。 能力のある者の増加は平和な時代では当然のことである。かつては一〇〇人に一人しかその能力を持っていなかったのに、今では一〇人に一人という割合にまで、さらには二人に一人という割合まで増加することは珍しくない。二〇世紀から今世紀にかけての日本を見ても、かつて、大卒者は一〇〇人に一人であったが、今では二人に一人...2017.04.28 22:20平安時代叢書
末法之世 4.末法思想の登場 長久の荘園停止令が発令されてから一ヶ月半ほどが経過した長暦四(一〇四〇)年七月二六日、近畿地方一体に暴風雨が吹き荒れた。平安京の被災状況が次々と朝廷に告げられ、ひと段落ついたと思ったら今度は伊勢からの被災の報告である。何しろ伊勢神宮の外宮が倒壊したというのだから穏やかではない。 この暴風雨の被災から立ち直りつつあった九月八日には京都で大規模な地震が起こった。 そして、その二日後の九月一〇日には、里内裏としていた故藤原道長の邸宅である土御門殿が火災に遭い、三種の神器の一つである八咫鏡(やたのかがみ)もその被災に巻き込まれた。もっとも、八咫鏡の本体は伊勢神宮に安置されており、京都にあるのはその形代(かたしろ)、つまりレプリカである上に...2017.04.28 22:15平安時代叢書
末法之世 3.執政者藤原頼通 この切迫感の感じられなさについて、もう一つ取り上げるべきエピソードがある。 長元七(一〇三四)年一〇月二四日、上総国の官物を四年間免除すると決定された。上総国に命じられている国からの税を四年間免除するから、その間に上総国の復興をせよという命令である。このような命令は、この時代の災害復旧におけるごく普通の命令であった。 では、上総国に何か災害があったのか? あった。 ただし、それはこの三年前に収束した災害である。長元元(一〇二八)年から長元四(一〇三一)年まで続いた平忠常の乱がそれである。 平忠常の乱から三年を経てようやく、免税という形での被災地支援が決まったというこのエピソードを、朝廷の怠慢や藤原頼通の怠慢で片付けることは簡単であ...2017.04.28 22:10平安時代叢書
末法之世 2.社会、経済、文化の変容 島根県を代表する観光地、出雲大社。 いつ誕生したのかの記録を遡ると古事記や日本書紀にまで遡る。 ただし、出雲大社という名称を歴史資料で探しても出てこない。出てくるとすればそれは明治時代以後の史料である。 江戸時代まではどう称していたかというと、ただ単に「大社」。あるいは「杵築社(きづきしゃ)」。杵築というのは出雲国風土記に既に見られる出雲大社周辺の地名であり、出雲大社の所在地も正式には島根県出雲市大社町杵築東。 この杵築社という名前は歴史資料に何度か登場するが、その少なくない数が、出雲大社の倒壊に関する記録である。五重塔は台風が来ようが地震が来ようが壊れなかったが、出雲大社は歴史上何度も倒壊してきた。 現在の出雲大社は、大きな建物...2017.04.28 22:05平安時代叢書
末法之世 1.藤原道長の影と遺産 時代の移り変わりには二種類ある。一瞬で起こった移り変わりと、少しずつ変化して気がついたら時代が変わっていた移り変わりである。多くの人は、前者の移り変わりについては明確に自覚するし、そのとき自分は何をしていたのかをはっきりと思い出せる。そして、未だ生まれぬ子や孫の世代にも語り継ぐことができる。戦争や災害は語り継がれる記憶となり、学ぶべき歴史の出来事となる。第二次大戦の記憶が、阪神淡路大震災の記憶が、東日本大震災の記憶が語り継がれ、記憶は記録となり、記録は歴史となる。 しかし、後者の移り変わりが現在進行形で続いていることに気づくことはない。気がついたら時代が変わっていて、かつて時代の覇者であった者は時代から取り残され、それまで目を向け...2017.04.28 22:00平安時代叢書