平家物語の時代 13.平家滅亡 平家物語の記すところの平維盛の死から遡ること一〇日、実際の平維盛の死からは二〇日ほどが経過した寿永三(一一八四)年三月一八日、源頼朝が鹿狩りという名目で伊豆国へと出発した。当然ながらそのような名目を信じる人など誰もいない。源頼朝はあえて鎌倉を離れたのである。より正確に言えば、鎌倉より情勢を優位に働かせることのできる場である伊豆国へ移ったのである。 源頼朝が伊豆国に向かったのは伊豆国で平重衡を出迎えるためであった。平治の乱で敗れて伊豆国に流されてきた源頼朝が、平家の武将の一人である平重衡と伊豆で会う、それも完全に立場が入れ替わっている状態で会うというのは、平家に対するかなりの意趣返しである。 それに、もう一つ目的があった。一ヶ月前の...2022.10.15 10:00平安時代叢書
平家物語の時代 12.一ノ谷の戦い 源頼朝が報告書を受け取って読んでいた寿永三(一一八四)年一月二八日、京都では何の前触れもなく源義経が訴えられるという事態が起こっていた。 訴えられた理由は、源義経の郎従が小槻隆職の邸宅に押し掛けて乱暴を働き小槻隆職を捕縛しようとしたことである。捕縛だけならまだ妥協できようが、押し掛けて乱暴を働くとなると話が違う。これまで鎌倉方の武士たちは全く乱暴狼藉を働いていなかったので安心していたのに、ここでいきなり自分だけこのような目に遭う理由は何なのか、まるで木曾義仲と同じではないかと小槻隆職は右大臣九条兼実に訴え出て、九条兼実はただちに源義経への状況説明を求めた。 ちなみに、九条兼実が直接源義経に説明を求めたのではなく、九条兼実はまず前中...2022.10.15 09:55平安時代叢書
平家物語の時代 11.木曾義仲破滅 寿永二(一一八三)年七月二五日、平家一門、京都を脱出。平家の都落ちである。 各地に派遣していた平家はただちに呼び戻され、安徳天皇、三種の神器、後白河法皇とともに西へ脱出することが発令された。 ところが後白河法皇が行方不明になった。前日に安徳天皇は法住寺に行幸しており、少なくとも七月二四日の夜までは安徳天皇が後白河法皇とともに法住寺にいたことが判明している。ところが、未明に法住寺に駆けつけてみると後白河法皇がいない。安徳天皇はいるのだからどこかにいるだろうと思って探してみても、やはり見つからない。しかし、刻一刻と猶予は消えていく。やむなしとして、平家は安徳天皇だけを保護し、三種の神器とともに法住寺を脱出した。なお、後白河法皇はこのと...2022.10.15 09:50平安時代叢書
平家物語の時代 10.木曾義仲上洛 源頼朝との間に相互不可侵が成立したことで、木曾義仲は行動の自由を獲得できた。 多くの武士が木曾義仲のもとに集って挙兵したのは、平家への怒りに満ちた正義の感情からでも、誰からも邪魔されない暮らしを手に入れようとしたからでもない。名目は平家打倒ではあっても、その本音はこれまでより高い地位を手にし、より多くの資産を手にし、今まで以上に好き勝手暴れまわることを望んで、武器を手にして木曾義仲のもとに駆けつけたのだ。木曾義仲自身も含め、木曾方は現状維持で妥協するつもりなどない。 ここに志田義広が加わった。志田義広は源頼朝から源氏嫡流の地位を奪い取ろうと画策している人間である。平家討伐を名目として京都にまで軍勢を勧めることはほぼ全ての者が望んで...2022.10.15 09:45平安時代叢書
平家物語の時代 9.養和の飢饉 治承三年の政変で成立した平家政権がほころびだしていることは鎌倉でも感じ取ることができることであった。 年が明けてしばらく経過した養和二(一一八二)年一月二三日、平時家が源頼朝の家人となったのである。これまでのパターンで行くと、平という姓であっても平家とは関係ない人物と思うかも知れないが、今回はパターンを裏切る。 何しろ平時家は平時忠の息子だ。平時忠は現役の権中納言兼検非違使別当である人と評すよりも、平家の権勢を示すかのような「平家ニ非ズンバ人ニ非ズ」という言葉を言ったとされる人と評したほうがわかりやすいであろう。武士ではないが平家の中軸を担っている一人であり、例えば武士として生まれながら貴族としての教育を受けてきた平宗盛と違って、...2022.10.15 09:40平安時代叢書
平家物語の時代 8.源氏の興隆、平家の衰退 西八条第の放火のあった治承五(一一八一)年閏二月六日、平清盛の遺言に従って平家の政務のトップを継承した平宗盛が、現状を考えると後白河法皇に全面的に従うのが得策であるとして後白河法皇への恭順を表明した。確かに現状を考えると国政の混乱を回避するのは後白河法皇による院政に立ち返るのがもっとも簡単に国政を安定させる方法である。 しかし、その翌日の閏二月七日に後白河法皇のもとで開催された公卿議定において源頼朝討伐の中断を決定したとなると話は変わる。平宗盛は自分ではなく弟の平重衡が全軍を率いるという妥協案を示した上で、改めて源頼朝追討のための院庁下文を発給することを要求したことで、後白河法皇院政のもとで政局混迷の回避を図っていたのがただちに瓦...2022.10.15 09:35平安時代叢書
平家物語の時代 7.平清盛死す 年が明けた治承五(一一八一)年、鎌倉では平穏な日々として始まり、京都では不穏な情勢として始まった。 源頼朝が新年を鶴岡八幡宮への参詣で迎えた頃、京都では前年の南都焼討の後始末に追われていた。と言っても被災者の救済でもなければ、焼け落ちた東大寺や興福寺の再建でもなかった。 東大寺と興福寺の所有していた荘園を没収するとしたのである。平家に言わせれば反平家で起ち上がったこと、すなわち、国家反逆罪で起ち上がったことそのものが罪であり、荘園没収はその罪を償わせる結果であるとするのが公式見解である。 さらに、平家方である武士でも源氏につながりがあるとなれば容赦なく処分の対象となった。前年に妻子を殺害されたばかりの武田有義が、父親が武田信義であ...2022.10.15 09:30平安時代叢書
平家物語の時代 6.挫折と焼亡 治承四(一一八〇)年一一月二六日、安徳天皇平安京に還都。 同日、高倉上皇が平頼盛の六波羅池殿に入り、そこで病の床についた。 後白河法皇は平教盛の六波羅邸に入る。 これで正式に平安京への帰還が完了したこととなる。 もっとも、福原に移住していた貴族や庶民は福原から徐々に平安京に戻って来ている途中であり京都の賑やかさはまだ戻っていない。建物を取り壊して福原に移築させた影響もあって、それまで建物がひしめいていた土地が荒れ果ててしまっている。おまけに近江国が制圧された影響もあって市には商品が並ばず、並んでいるのは職や住まいを失い、その日の食糧にも事欠くようになった庶民の姿であった。 福原に滞在していた頃は夢にまで見ていた京都はすっかり寂れて...2022.10.15 09:25平安時代叢書
平家物語の時代 5.福原遷都挫折 平清盛の福原遷都は容赦ない批判を受けたが、源頼朝による都市鎌倉の建設は批判を全く受けていない。理由は明白で、源頼朝は鎌倉という都市を構築することは狙っても、鎌倉を首都にしようとも、ましてや皇族の方々や貴族に移り住んでもらおうとも考えなかったからである。 源頼朝という人は平治の乱で敗れるまで京都で貴族としての教育を受け貴族としての日々を過ごしていた人である。源頼朝の脳内ある都市とは平安京のことであり、鎌倉に都市を築くとすれば平安京を模した都市となるのは必然である。 良く言われるのが、鎌倉は三方を山に囲まれ、残る一辺は海に面した防御に適した土地であるという評価である。その評価は間違っていないのだが、それだけが都市としての鎌倉の評価基準...2022.10.15 09:20平安時代叢書
平家物語の時代 4.鎌倉入り 源頼朝の立てた作戦とは何か? 源氏勢力を房総半島に集結させることである。 治承四(一一八〇)年八月二八日、それまで姿を隠していた源頼朝の所在がついに確認された。真鶴から出港して相模湾を西から東へ横断して安房国へと向かった。相模湾の船上で源頼朝は、衣笠城を放棄した三浦義澄と合流し、安房国へと上陸。そこで北条時政と再会する。 犠牲は大きかったが、源頼朝は作戦を全て成功させたのだ。2022.10.15 09:15平安時代叢書
平家物語の時代 3.源頼朝挙兵 福原遷都と言うが、治承四(一一八〇)年五月三〇日の発表はあくまでも安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇の福原御幸であり、首都機能の福原移転ではない。しかし、平清盛が告げた六月三日の福原御幸は、京都出発が六月三日ではなく福原到着が六月三日であると、すなわち、誰もが考えていた出発日の一日前である六月二日に、安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇を奉じて京都を出発すると発表されるとさすがに多くの貴族が慌て出す。その用意周到さの意味するところは明白なのだ。平清盛は平安京を捨てさせることにしたのである。竜巻の被害に対して何もしなかったというのは執政者失格の行動であるが、新たな住まいを用意するとなればそれはそれで執政者として評価できる行動ではある。 平清盛...2022.10.15 09:10平安時代叢書